2015年3月17日火曜日

【資料】「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)―矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」



「まちづくり運動」にかんする資料をひとつご紹介します。

日本自立生活センター二代目所長・矢吹文敏のインタビュー記録です。

「車いす市民集会」という「まちづくり運動」にかかわり、京都に活動拠点を

うつすにいたるまでのエピソードです。

ぜんぶは長いので、リンクを張ります。


「障害者運動とまちづくり運動の展開(1)――矢吹文敏氏(日本自立生活センター)に聞く」
聞き手:高橋慎一

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We show you a material of "the Movement of Town Creating," which is a early Japanese activity of people with disabilities.

It is the interview with Fumitoshi Yabuki, who is the director of JCIL.

He started his activity from "Public Meeting of People with Wheelchair" and moved to Kyoto.

So this is long, we put the rink.

"The Movement of People with Disabilities and  the Movement of Town Creating."

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(以下一部抜粋です)
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■東九条と障害者運動

高橋:
 「東九条のまちづくりと障害者運動」というテーマで矢吹さんに伺うということで、二日に分けて聞き取りさせていただきたいと思います。この聞き取りは、現在京都市東九条で進行しているまちづくり運動に連動して行うことになりました。
 2008年の春から、日本自立生活センター(JCIL)の土田五郎さんとDさんが住宅保障のための運動(「住まいの場づくり」)をしておられて、市営住宅を足で歩いて調査していたり、NPOまめもやしの事務局長であるMさんに話を聞きにいったり、住宅政策課や住宅供給公社と交渉を重ねたりしていました。この東九条地域で活動する人たちとコミュニケーションをとることで、ゆくゆくは「自立生活体験ホーム」を作りたいという思いが二人にはありました。
 その東九条のまちづくり運動は、京都市東九条という、在日韓国朝鮮人集住地域であり、同和対策事業の対象にもなった被差別部落地域とが隣接する街で行われています。かつては在日と部落の青年会やキリスト者の若者たちが担ってきた住環境・生活改善運動が、「多文化共生のまちづくり」という枠で、新しく展開しています。そこに関わるうちに、東九条のまちづくり運動に、障害当事者の視点を入れることはできないかという話になりました。
 そこで、この被差別者が集住する地域に自覚的に飛び込んできた障害者団体JCILに、ぜひとも障害者の視点からまちづくりを提案できないかと。ということで、あえて――僕自身もこの言葉には疑問があるのですが――「障害者のまちづくり」というテーマを設定して、矢吹さんにお話を伺いたいと思います。矢吹さんは、代表である長橋栄一さんと共に創生期からJCILを支えてこられました。
 まずは、矢吹さんの個人史と障害者運動への関わりを伺い、次に、JCILの歴史(前史)と京都市や東九条との関わりに関して整理していただき、最後に矢吹さんの「まちづくり」に関するお考えを聞けたらと思います。話の流れは、矢吹さんのお好きな形でともとは思うのですが、一応何もないところよりはということで、僕の方で流れを一度作らせてもらいます。僕自身の理解のためにも、まずは全体図をえるために、矢吹さんのお手元にもある年表(「障害者(運動)史のための年表」)を参照しながら話をさせていただきたいです。それではお願いします。



■矢吹文敏さんの個人史~山形から京都へ

◆山形から「移動と交通」運動

矢吹:
 私が一番最初に自分達で活動をはじめたのは、超ローカルな「サークルきどう」という山形県で昭和47年、西暦で言うと1972年に発足した会があります。
高橋:
 1973年3月21日に「山形駅前地下歩道開通に伴う横断歩道廃止反対、エレベーター設置要求市民集会」と「車いすデモ150名参加」がありますね。「サークルきどう」の活動で。
矢吹:
 それ以前に、72年の段階でできているはずで、72年の後半に市民会館にスロープを付けさせるという運動があった。
高橋:
 1972年12月25日に山形でサークル・きどうが「建設中の市民会館にスロープ・トイレの設置等の改善要望書提出」がありました。
矢吹:
 その活動の前に「サークル・きどう」ができる。そのときに、私自身がそういう目覚めというか気づきの中で動き始めたのがその頃。
高橋:
 「きどう」というのはどのような意味なのでしょうか。
矢吹:
 命名した私らの間でもいろんな冗談込みの意見があって、「鬼の童」だとか、線路の「軌道」とか、無軌道の「軌道」だとか、いろいろ。
 それで、実は表向きは「山形社会保障研究会」という名称が付いていて、既成の「身体障害者団体連合会」という全国組織の下部組織が山形にも当然あり、その頃は福祉事務所に手帳を申請に行くと「この会に入りなさい」って言われていた時代なんですよ。
 何かよく分からないうちに、その「身体障害者団体連合会」に入ることになっていて、いつの間にか「体育会」や「旅行」の案内が来たりする。
 その頃は、今みたいに個人情報とかプライバシーの保護とかが言われてない時代なので、要するに、どこの家の誰々が障害者だというのは、名簿を見れば分かる状態だったわけだね。
 当時、入所施設の中から「施設改善」を求める内部告発があって、我々は、古い体制の身体障害者福祉協会という枠の中でしか動けないのはおかしいと思った。
 「もともと色んなことを改善させるためにあるわけだから、もっと動いてくれ」と組織役員に上に言ったんだが、「そんなことを言うなら出てってくれ」と言われて、そんなら自分達で外でやろうといって始まったのが「サークル・きどう」なのね。それは当初は、障害者と健常者関係なくやり始めたんですよ。
 で、結成するとほぼ同時期ぐらいに、山形市民会館が新築されるということで、設計図を見せてもらうと、スロープもトイレも何にもないということが分かって。それで、市町の親戚の方を介して急遽市長の家に押しかけて行ったり、議会に行ったりして何とかしてくれと言い始めた。そんときは怖いもの知らずというか、「市長誰か知ってるか?」「オレ知ってる。行こうか」みたい感じで。
高橋:
 ちょっと話が前後しちゃうんですけど、1971年に宮城県「仙台市で「福祉のまちづくり市民の集い」発足」とありますが、ここには参加しておられたのですか。
矢吹:
 それはどっちかというと「全障研」系だね。ただ、この頃は、どの組織がこうだというような先入観がほとんど無かったから、色んな集会があれば飛び込んでいった。
高橋:
 1969年12月に「仙台市の「生活圏拡張運動」始まる(後にまちづくり運動に発展)」とありますが、これは矢吹さんは関係しておられますか。
矢吹:
 直接は関係していないんだけど、そこに参加した村上さんという人が、村上さんというボランティアと一緒に、たまたま宮城県にある西多賀療養所、筋ジスの人などが多く入っているんだけど、そこの人たちが街に出たときに、車道の段差が多くて厳しい、トイレもどこも行けないというので、そのときに彼らが言った言葉は「ちょっとした配慮を」。
 お金をそんなにかける必要もなくて、トイレと言っても、まだ広いトイレを作るっていう発想もなかったから。ちょっとでも使えるようにしてくれたらいいんだということで、彼らは「遠慮がち」に二人でお願いに歩いたと。
 ここで時代の潮流というのか偶然というのか、筋ジスでカリスマ的なリーダーである山田冨也という人が、仙台で自分達の主張をするために、『ありのまま』という映画(現在の社会福祉法人「ありのまま舎」)を作る。彼らは「命」という問題を中心に訴えた。
 「自分たちは他の人たちよりも早く死んでしまう」ので、その命をみんなはどう考えるのかと。例えば「自分たちの命を少しでも長くするために、病気の原因解明と治療方法を1日も早く研究してほしい」というような要求をしていた。
 そのとき「ありのまま」と「ちょっとした配慮を」という運動とが繋がって、そこに着眼したのが朝日新聞厚生文化事業団。その頃の朝日事業団の功績というのは我々から見てもめまぐるしいものがある。好景気という時代背景もあって、厚生省に先駆けてさまざまな支援事業を展開した。
 それがこれ(朝日新聞大阪厚生文化事業団『先駆――55年の歩み』1984年発刊)を見たら分かるんだけど。そこから朝日新聞厚生文化事業団との関係で生まれたのが、「車いす全国市民集会」なんです。
高橋:
 第一回目は仙台で1973年9月20日「車椅子体験旅行と交流集会」という名前ですね。これが第2回から「車いす市民全国集会」として発展した。
矢吹:
 そうそう。そこのときは事業団としてはそれ一回で、イベントとして終わりのつもりだった。
 ところが、我々の要望で、自分達が実行委員会を結成してやるので、お金とバックアップをしてくれと。じゃあ、一緒にやりましょう。事業団と共催でやることになったのですね。
 それが二年に一回の開催でずーっと続いたわけだ。私らが全体的に「まちづくり」と言うとき、「車いす市民集会」を軸に動いてきたという自負があるんですよ。

(以上抜粋。全文はリンク先にて)





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