(写真は、勉強会とは関係なく、春の鴨川を散策中の土田さんです)
以下は、運動のために勉強会をして記録を残そうという取り組みのひとつです。
第1回勉強会、講師は、日本自立生活センター所長・矢吹文敏です。
第2回勉強会からは、映像記録も公開していきたいです。
(以下、学習会記録)
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住まいの場づくり勉強会(第1回) 「障害者の自立生活と住まい」
お話 矢吹文敏さん(日本自立生活センター所長)
■講師のお話
●障害者運動のリーダーたちと住宅問題
私自身、「住宅問題という区切りだけでお話しする機会はめったにない。
過去にもいろいろと、障害者の設計屋さんとか大学の学者さんたちも住宅問題について、車いすが動きやすい家の設計はどんなものか、という研究はしてきている。
そういう資料は探せばずいぶんと見つかる。ただそれが、実際の運動に直接結びついたかというと、なかなか見当たらないです。皆さんが体験していることでもある。
1970年代に障害者のまちづくり運動がはじまり、これまで続いてきた。街づくり運動をしてきたリーダーたちの自分の家は意外とバリアだらけ。自分の家の玄関から出られないという人が多かった。福祉のまちづくり運動のリーダーであり、日本自立生活センターの代表で、3年前に亡くなられた長橋さんの家も、長橋さんは手で自由に動けていたということもあって、玄関から車いすで直接は中に入れない。
宮川くん(*宮川泰三さん。JCIL当事者スタッフ。JCILができるきっかけになった方)が長橋さんのおうちにうかがった時でも、ごろんごろんと転がるしかない。東京であれ、大阪であれ、活動家は自分の家をあまり公開することなく内緒にしてきた。私も実家がお寺で、お寺なんてバリアだらけ。私の家に来ようとすると、けっこうな坂道をのぼってこなければならない。
外では「街づくり運動ー」とか「行政なんとかしろー」と言っていたが、家に帰ったら「誰かあけてー」と言わなければならなかった。最近、時代の流れのなかでかわってきた。京都は1970年代向島ニュータウンや洛西ニュータウンができてきた。市営住宅の一階に2戸分の車いす住宅をつくるというのが京都市で決まって建てられてきた。全国的にも画期的なことだった。それでも、このパターンで車いすの人が公営住宅に入っているのは、ごくかぎられた人だけだった。私の出身地山形では、120万の人口のうち、車いす使用者のための4世帯分しか公営住宅がない。それに比べても、洛西と向島のニュータウンだけでも、当時車いすの方が2、3百人はいた。こんなところはめずらしい。
人間が生まれてずっと毎日、こどもの時から大人になるまで生活する住宅というのは、人間の心理学的にも、育ちの部分でも、大きく影響すると言われる。ある設計の人たちは、最近の青少年にとって昔と違うのは、茶の間がなくなったせいだと言っている人がいます。むかしはイイ悪いは別として、茶の間を通らないと玄関に出られない構造になっていた。いまの構造は、家族がいつ帰ってきたのかのかが分からない。いい意味ではプライバシーを守るという点があるが、家という制度は機能しなくなっていると言われている。
私ら障害者はむかしは座敷牢で育ち、そこで亡くなっていった人たちがたくさんいる。私自身も玄関から外に出るということは、その都度玄関にスロープを敷いて貰って、オフクロや兄貴が出入りができない。出たら最後、その人たちが帰ってこないと自分は家に入れない。自由というのは、住宅にかんしては限られた自由 だった。
車の免許をとって、先ほどまで外を自由に走り回っていた活動家やリーダーも、家に帰ってくると、玄関先でクラクションを鳴らす。奥さんや家族の人が出てくるのを待っていた。ですから、もし、完璧に自立した行動を望むのであれば、住宅の問題は避けて通れない大きな課題です。
つまり、この話は「住宅の構造、住みやすい家はどうか」というはるか以前の話です。その頃の話でいくと、私も含めて、宮川くんとか土田くん(*JCIL当事者スタッフ。この運動のリーダーです)とかYくん(*JCIL当事者スタッフ。地域移行支援が専門)の存在は世の中になかった。重度障害者は施設にいる人であって、世の中に出てきている人ではなかった。私らが重度だったんです。ある人からは「矢吹さんずるい、障害者手帳が同じ1級なのに、運転したり、いろいろできるなんて…」。しかし、考えてみると、重度とか軽度とかね、大変むなしい議論になる。なんの生産性もない。
現実的な人の感情で言うと、障害者同士でも不公平感を感じている。今回土田さんたちと一緒に、住宅供給公社に行ってよりはっきりしたが、住宅供給公社は、宮川くん山崎くんらが住む家ではなかった。小児マヒで動ける人や脊髄損傷の人のように、ある程度自分のことができる人たちのような住宅だった。みなさんが一人で自立生活をするなんてことは、失礼な話だが想定外だった。
宮川くんが舞鶴の施設から「自立生活がしたい」と長橋さんに何十回と電話も手紙もきて、訴えてきた時代は、自立生活という言葉自体もなければ、宮川くんが地域で生活するなんてありえなかった。「この人を自立させたい」ということは、誰も考えなかった。「施設から出た以上はうちは関係ない、戻ってきても困りますよとも言われた。
私が京都に1980年代に来た時、宮川くんの施設と役所との交渉に私も出席したが、自立生活なんてまったく考えていない。ましてや、住宅が重度障害者の生活を保障するイメージにはなっていなかった。
いろんな人たち(先輩たち)が施設から出てきて地域で暮らすということを実践してきた。最初は物置でもなんでもいいと借りて生活がはじまったわけですが、それを受けて京都市はそういう住宅をつくった。東京、神奈川、横浜でもそういう状況がはじまった。すると、私たちも自立生活をしたい、公営住宅に申し込みたいと。さあ、申し込もうとしたら、全部断られる。公営住宅法という法律のなかで、「著しい介助が必要な人は入れません」と明確に書いてあった 。
「単身入居と世帯入居というのがあって、世帯入居ではないとだめだ!」と言うのはおかしいだろう、と疑問を持ちつつ、障害者仲間の一部では、密かに偽装結婚?がその頃流行った。市営住宅の申し込み時点では、婚約済みの書類で申し込み、入居してから別かれるんです。役所は「話しが違ちがうじゃないか」とも言うわけですが、「入ってから喧嘩して別れたんだからしゃあないじゃないか」と。そんなことのトラブルも繰り返されたりもした。制度も変わり、単身入居もオーケーだとなってから、今度は、ヘルパーが日常的に泊まりに住むような状況は困ると言われた。そこでDPIが交渉して、「著しい障害者は入居できない」という項目は削除された。
たとえば、岩本さんたちは、入居してからも「畳もあるし良かったよかった。畳の部屋で寝られる。トイレも立派、お風呂も入れる。こんないい所に私たち入れて幸せだ」という人たちが出てきます。10年、20年もたちながら、環境は流れているわけですが。
いま住宅問題を考えるにあたって、いろんなものが見えてきたと思います。なぜ普通の人が一年に4回も募集期間があるのに、障害者は1回なのか。なぜ住宅の数が少ないのか。畳の部屋は僕らにとっては邪魔なんだ。お風呂場は、二人介助で使えないんだ。最近向島に引っ越してきた方は足を怪我したそうです。
私自身は古い人間で、障害者運動の初期の段階で考えてきたメンバーは、今まで入れなかった人が入れるようになっただけでもよかったね、という考えがどこか残っている。電車でも乗れたらいいなというのと、いまは何両目に乗りたいという若い人もいる。それは贅沢といっていいのか、当然の主張といっていいのか、非常に迷う状況です。
こういう住宅にしてほしいという新たな変化というか進歩というか。私なんかは、畳にゴロッと横になれる感覚は好きだけど、人によって、全部電動で動けるようにしてほしいというのは当然の要求だと思います。そのへんがこれからの新たな運動の要求と思っています。この前行ったときにも、ある程度の話し合いができたという感覚もありましたが、昔と今の事情がかわっているというのを、私たちも公社の人たちも認識をあらためていかないと。あっちは、「《皆さんを》入居させてやるんだからありがたく思えという姿勢を直し、「○○の市営住宅の入居者はガラが悪い」などと陰口を叩かれるようなことではなく、双方共にかわらないといけないのではないか。
あと、これからの障害者運動のリーダーになっていく後輩の人たちが、私たち(先輩)が世の中の考え方や環境を変えてきたことについて、まだまだ不十分ではないか、先輩たちは何してたんだ、という批判もあるかも知れない。けれども、現代の環境ともまた異なり、昔の限界もあって、私たちの発想がそこまで及んでいなかった。
住宅に出入りするための歩道車道交差点、電車・バス・飛行機、点から線になる生活。それが住宅の問題か街づくり運動というか。住宅だけ独立していいものができても、つながらないという面も、視野を広げて考えていかないといけないかなあと考えています。
●自分自身の体験から
私は、山形県の天童というところで生まれて、お寺の中で生活をしていた。おかあさーんと呼んでも、私の部屋からは、本堂で掃除しているオフクロに声が届かない。腹へったーと言うと、今日は法事だからまだだよと言われる。「まだ(もっと)食いてー」と言うと、ご飯に醤油や砂糖や 味噌をかけてわたされた時代。マヨネーズや卵なんてとんでもない時代。そんな子どもの頃に育った。
二箇所目は、寺から出ると決めて、天童の公営住宅に申し込んで、ようやく入れるようになりました。ところがこれがまずかったんですが、公営住宅に長く住まないうちに出なくてはいけなくなった。酒田市という所に行きました。自分で印刷屋をやっていて、それを辞めて福祉用品を売っていた会社があったのですが、そこに勤めることになりました。そこで支店長になって、会社の寮のような民間の家を住まいにしていました。その頃は私は二階に上がれたんですね。腕力と足のちからで毎日朝と夜に昇り降りして、寝泊まりしていた。その頃に土田さんという人と出会いまして、土田くんがある日突然かばんを二つ持って家出をしてきた。「おれ、今日からここに泊まる」と、寝泊まりをはじめた。私はあわてて会社に了解をとった。しばらくすると、会社でアルバイトしないかと言われて、不思議な二人の生活が始まったんですね。その頃は土田さんも車も運転もし営業もし、私と一緒に動いていました。支店長時代にバックしてきたワゴン車にひかれて、全身七カ所の骨折で半年入院。退院してきたときに、私が土田さんの家に転がりこんで、二ヶ月くらいもぐりこんで居候の生活していた。
そんなこんなの中で、車いす市民全国集会で知り合うこととなった長橋さんから誘われて京都に来た。京都に来たけど私のすみかはない。長橋さんの家に超ハードな研修?を受けながら、明け方近くまで色々な話を聞くことになった。夜中には奥さんが夜食を出してくれて、朝方寝て昼まに起きて、という生活が3ヶ月ほど続きました。そんな中、宮川くんが施設から飛び出してきました。アメリカの独立記念日に。宮川くんの家がない。私はその頃に事務所に寝泊まりして24時間勤務だとか言われて、大家さんからは寝泊まりはだめだと言われていたが、障害者の相談は昼夜を問わないので、宿直ということで、活動を続けた。大家さんも「こいつら騙してんなと思っていたでしょうが、許してくれていました。そこに、もうひとり超へんな人が飛び込んできたわけです。無理だろうと思いながらも家をさがしました。西陣の下長者町というところに長屋を見つけました。契約が決まる時には一悶着ありました。大家は「宮川さんの名前ではだめです、矢吹さんの名前ならいいです」ということだった。明らかにおかしいんだけど。宮川くんたちが地域で自立生活するなんて誰も思っていない時代だから、保証人の問題などいろいろある。そこで、矢吹がかりる、長橋さんが保証人。私が宮川くんと同居するというへんなことになりました。長屋ですから、戸はガタガタでトイレはつかえない。近所からはあんたのような人がくるんだから、火災保険の料金をあげないといけない、捨てた生ごみの袋の中をあけられたり、電動車いすの音がうるさいとも言われました。宮川くんも知らないということもあって、電磁調理器とストーブ一緒につけてブレーカーがとんで、宮川くんはどうしていいか分からなくて、困ったこともあった。あの頃携帯電話なかったので、急いで玄関を出ようとしたら、玄関をぶち破って、ガラスの破片が散らばって、電動車いすで中から出られなくなった。誰かが見つけてく れて連絡もとれて、何とかしてくれた。いろんな人を緊急でよびだして、なんとか生活した。
住宅という問題で言うのか、なんといったらいいのか迷いますけれども、重度の障害者が暮らせるような住宅構造ではなかったんですよ。それでもなんとか我慢しながら暮らしていたときに、近所から大家さんに電話がいくわけです。なんであんな奴に貸したんだと。近所からいろんなクレームがきて、大家さんが近所の人に謝るようなことになってしまって、「私もどうしようもないんです。申し訳ないけど出ていってくれませんか」と言われた。急に言われても次に住む家がない。次の家が決まるまでおいてくれ、というわけです。
亀岡に日本自立生活センター亀岡地域自立ホームというグループホームをつくりました。その グループホームに入れるようになったのがその次の年の6月頃。全面的な理解の中で借りることになった家なのだが、家を改修する前に入ったので、これまた大変でした。その都度長橋さんに怒られていた。グループホームで生活をはじめたのが、O,K,Y,宮川,M,です。亀岡の地域自立ホームの所に、Mさんという方のお父さんが郵便切手とかハガキの販売許可をとっていて、クリーニング屋をしていた方なので、クリーニングの取次店になり、郵便も売ろうと、生活福祉社をつくってやっていこうということになり、Oさんが中心になってやった。山形のりんごや乾麺を仕入れて、販売しながら生活福祉社をやってきた。宮川くんはですね、毎日出かけていって亀岡の坂道をおりていって、行きはよいよい帰りは怖い。行くときはすっきりした顔ですが、帰りは京都駅あたりでどうやらワンカップを飲むらしい。駅員からまた飲んできたんかと言われながら、全部の駅員が宮川くんの名前を知っている。Mさんも白梅町に亀岡から通っていた。ときどき宮川くんが意識を失ったかのようにベロンベロンになりまして、坂道からこけるんですね。崖からおっこってみたり。歩道の途中で眠り始めて、通行人から救急車をよばれたり。気持よく起きたら救急車がいた。別に僕何もしていないと。途中でバッテリーがなくなって、派出所で充電したり。警察官もみな宮川くんの名前を覚えた。私が言いたいのは、グループホームをつくらないと私らが自由にできる住宅はなかったということ。入居者皆でお金をかりて住宅を改造して、それをグループホ ームの家賃で返していったという経過もありました。グループホームからも入居者が順番にでていき、宮川くんも京都市の市営住宅にあたって、グループホームは現在は残念ながらなくなってしまいました。
亀岡から、久御山の公団住宅にうつりました。久御山から淀の府営住宅にうつりました。府営住宅にうつるときも、入り口や室内のバリア構造の件で京都府とけんかしたりして入りました。それよりも市営住宅がいいねえということで、向島ニュータウンが競争率が低くて一発で入ったということです。
●これからの住宅運動に向けて
私が生まれたところから考えると10回くらい引っ越しています。ですからもう引っ越したくない。ただ引っ越したくないけど、私が住んでる向島は宇治川とか天ヶ瀬ダムが決壊すると3メートルくらい水があがって、ハザードマップによれば、地域住民の4,000人くらいが間違いなく死ぬそうです。そんなんおかしいじゃんという話をしながら、向島で防災の話が盛り上がっています。地域の防災の会議のときに言いました。私だけ生き残りますのでよろしくおねがいします。文教大学の先生が「わかった、矢吹さんだけ助ける」と言ってました。住宅の問題だけではなく、生活の場面も重要です。近所の消防署も、派出所もぜんぶ水没して、ぜんぶやられます。あてになりません。私は、超怖いところに引っ越したわけです。引っ越さないようにするには、安全な場所にしないとい けない。住宅供給公社にこれから要望していくのは、災害時には4階とか5階を開放して、避難場所にしてくれと。あえてそこを空室にして、いつでも避難場所として使えるようにあけておくべきじゃないかとこれから要望していこうと。という住民の相談会が行われています。車いすの人と視覚障害者を対象にしたシュミレーションをやってみようという話になっています。向島で30年間なかったとりくみです。(2015年)2月22日が本番です。場所は私の家です。午後からの話し合いはあいりんの幼稚園の体育館で説明があります。
ですから、障害者のリーダーたちは自分たちの家がままならない状況からはじまって、これから生活する人たちの問題とようやくつながってきた。自由に暮らすためには、駅の近く であったほうがいいとか、お店の近くであったほうがいいとか、それはそうあるべきだろうと。そういう場所に家を立てていかないといけないだろうと。
■参加者との議論
矢吹 介助者はどんな部屋がいいと思うの?
A やっぱり車いすで反転したり、移譲のときに感じるのは、狭さ。スペースがあればいい。
B 細かいことはいろいろありますが、基本は障害者の人が身体的に楽に過ごせるかどうか。身体介助など本人がしんどかったらたいがい介助者もしんどいので。
矢吹 とまり介助の人はどこにねてるの? そんなスペースあるの?
Y いっこ部屋があいてるから。そこで寝てもらっている。声をかけたらくる。
土田 おれはとまりはない。
N 自分のとなりにひかえてもらっている。呼んだらすぐに来てもらえるように。隣で寝てもらうほうがよい。
土田 おれはナースコールをつけている。トイレだけど。
宮川 それうちにはない!
矢吹 どんな家に住みたい?
土田 その前にいろいろなおそうとしたら現状復帰といわれる。
Y オプションを自分でとりつけられるような部屋にしておいてくれたらいいのに。お風呂から寝る部屋まで天井にレールをつけて移動できるようにしようとしたけど、現状復帰に阻まれたから。
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